現在、過去の地球環境を知る有力な武器として、地球化学的な手法が広く用いられています。特にDSDPやODPといった深海底掘削コアによる有孔虫の安定同位体比分析は、地球規模の物質循環・環境変動をひもとく重要な手がかりとして古くから注目され、多くの成果があげられてきました。
その中でも有孔虫の酸素同位体比は、生息場所の海水の同位体比と生息時の水温との単純な物理化学的反応式で表されます。この内、海水の同位体比は、海洋のごく表層では蒸散量や降水量の影響が大きいのですが、それ以深では極域の氷床量の変動によって全地球的な変動の大部分が説明できるとされています。つまり、酸素同位体比の変動は氷床量または水温変化の指標として使えるのです。
しかしその解釈にあたっては、まだ幾つかの問題点を抱えています。最大の問題点は、高精度の対比が非常に困難であるという点です。深海底コアによる同位体比変動の成果のほとんどは、1980年代〜1990年代初頭にかけてのものです。そしてそれぞれの同位体比の時系列データは、その当時最新である年代尺度に基づいて年代が決定されています。それら旧来の年代尺度と、現在最も信頼性が高いとされるBerggren et al.(1995)の年代尺度とは、中期中新世においても最大で100万年以上ズレているのです。採用する年代尺度が異なると、信号そのものの形状が全く異なってしまうし、複数の変動曲線を対比する上で非常に大きな障害となってしまうことがおわかり頂けると思います。
この問題の最も確実な解決法は、これら安定同位体のデータを任意の年代尺度に変換可能な状態でデータベース化する、という事です。年代尺度はこれからも最新の地質学情報によって改定されていくでしょう。その時に、その変更された年代尺度についてのデータだけ入力すれば、データベースに登録された全同位体比データの年代値がその年代尺度に基づいた値に変換されて表示される様にします。現在、表計算ソフトのMicrosoft Excelを用いて試験的に幾つかのデータをデータベース化しています(図1)。将来的にはapache, PHP/FI, Postgress95などを用いてウェブブラウザ上でデータベースの全ての作業ができるように整備していきたいと考えています。
図1. Berggren et al.1995の年代尺度を用いて変換されたKennett(1986)によるDSDP Leg.90の底生有孔虫酸素同位体比曲線
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DSDP・ODPの深海底掘削コアによる有孔虫の安定同位体比分析は古くから行われている.酸素の安定同位体比は,生息場所の海水の同位体比と生息時の水温との物理化学的な反応式で表される.海水の同位体比は海洋のごく表層では蒸散量・降水量の影響が大きいが,それよりも深い水深では極域(特に南極)の氷床量変動によって全地球的な変動が説明される.つまり,有孔虫の酸素同位体比変動は地球規模の物質循環・環境変動をひもとく重要な手がかりとなることが期待される.
研究初期の重要な総括として,Savin et al. (1981)を挙げることができる.彼らは中新世についてそれまで報告されてきたDSDPコアの深海底生有孔虫を用いた酸素・炭素安定同位体比変動を整理し,全地球的にみられる変動として,前期中新世の酸素同位体比の減少と,中期中新世における急激な増加を見出した.彼らはこれらの変動が,前者は気候の温暖化,後者は南極氷床の拡大によるものであると解釈した.Kennett(1986)はDSDP Leg. 90の試料について,底生有孔虫と浮遊性有孔虫それぞれの安定同位体比変動を高い時間精度で分析し比較した.彼は底層水の方が表層水に比べ水温がより安定していると考え,深海底生有孔虫の酸素同位体比変動が氷床量変化を,浮遊性有孔虫の同位体比変動が水温変化を主に表しているとして地球規模の海洋環境を考察した.彼のシナリオによると16.5〜13.5Maにかけての底生有孔虫の酸素同位体比の急激な増加は,南極東部氷床が拡大し,それによって中〜底層水が冷やされたためである.また一方,16〜14.5Maにかけては浮遊性有孔虫の酸素同位体比はあまり大きく変動せず,その後14.5〜13.5Maにかけて急激に増加する.この両者の変動が一致しない16〜14.5Maにかけては氷床量が増加する一方,表層水は温暖化の傾向を示している事が指摘され,この時期,水柱における温度勾配が大きくなった可能性を示唆した.Miller et al.(1987)は太平洋・大西洋の2海域について新生代全体にわたって酸素・炭素安定同位体比変動を編集・統合した.彼らは高緯度における“寒冷度”が極域の氷床を維持するのに充分である場合,底生有孔虫の酸素同位体比変動は氷床量を表すものと考え,15〜14Maと10〜8Maの酸素同位体比の増加を氷床量増加によるものと結論づけた.
しかし,測定された同位体比変動が具体的に何を表しうるのかという点については慎重に検討されなければならない.Prentice et al.(1988)は第四紀の氷期−間氷期サイクルにおいて底生有孔虫の酸素同位体比が理論値と異なる変動を示すこと,熱帯地域の非湧昇流海域における,やや中層に生息する浮遊性有孔虫の同位体比がより理想的な変動を示すことから,地質時代を通じた底層水の温度変化は比較的大きく,氷床量変化は熱帯の浮遊性有孔虫の酸素同位対比変動に最もよく現れるとし,浮遊性有孔虫の同位対比変動を統合することによって新生代における氷床量変化を見積もった.Miller et al.(1991)は現在の地球規模の深層水循環が約2000年周期であることから,地質学的スケールでは氷床量変化による海水の安定同位体比変化は全海洋で同時に発生すると考え,浮遊性有孔虫の同位体比変動と底生有孔虫の同位体比変動が一致していればその変動は氷床量変化に起因すると考えた.それにより7つの同位体比ステージ(Mi1 - Mi7)を識別し*,それぞれが氷床量変化に起因する可能性を指摘した.この同位体イベントは氷床量変化に起因するものであるならば当然ユースタティックな海水準変動に反映されるはずであるが,彼らの同位体ステージはHaq(1987)のユースタティックカーブと年代について食い違う.彼らはこの原因をHaq(1987)で用いられた古地磁気層序・生層序が古いためであるとし,ユースタティックカーブの年代についての問題点を指摘した.さらにPrentice & Mattews(1991)は現在の海洋で底層水と表層水の同位体比が1パーミルも異なる事を指摘し,表層水・底層水間の同位体比勾配が地質時代を通じて変化してきた可能性を指摘した.彼らによると底生有孔虫の酸素同位体比変動はもはや氷床量変化と直接的には無相関であり,温度的に安定な海域・深度に棲む熱帯の浮遊性有孔虫の同位体比変動のみが氷床量を表しうるとして,氷床量変化を駆動する新たなモデルを提示した.彼らの仮説では,熱帯起源の温暖な底層水が氷床拡大の引き金になるとしている.
以上述べてきたように,もはや単純に深海底生有孔虫の酸素同位体比変動のみで地球規模の温暖化・寒冷化を議論するべきではないことは明白であり,Barron & Baldauf(1990)のClimatic Optimumも今一度明らかな記録に立ち戻って考え直す時に来ていると考えられる.単純な物理化学的反応過程である酸素同位体比変動でさえ,その要因は複雑に絡み合っているのである.地球規模における大気−表層水−深層水循環の複雑な連動の中でのみ現象は明らかにされていくべきものであり,そのためには基本的な熱輸送・物質輸送についての再現実験(シミュレーション)は不可欠である.しかしそのためには現象の空間的・時間的な広がりについて制約条件が与えられなければならない.まさに基礎的研究として,多くの地点について高い時間精度で多様で質の高い地質学的情報を集積することが求められるのである.
化石記録はそれ自体が高い精度での年代決定をする上で重要な道具であると同時に,非常に多様な環境情報を包含していると考えられる.古生物の時空分布は生物学的・環境的諸要素に規制され有限である.従ってその分布の動態は間接的にではあるが海洋循環の復元に対して何らかの制約条件を与えるものである.本研究はまさにそのための基礎的データを得ることを目的として行われた.
*実際にはここで述べたアルゴリズムに全てが従っている訳ではなく、曖昧な要素を残している。