読書記録・特別研究員2年目

(2003年10月〜2004年9月)


以下は日記からの抜粋です。
読んだ順に並んでいます。


地球科学

自然科学一般

実用書ほか

文学など



私はチョウザメが食べたかった。(末広陽子・著/河出書房出版)

有朋堂の科学書コーナーには、タマに科学書っぽくないヘンテコな本がある。
この本はまずデザインのヘンテコさに惹かれた。黄色と黒のツートンに、上記の、どこかとぼけた味のタイトルがぽっかり浮かんでいる。
どことなく、著者の照れたような表情まで浮かんできそうだ。

チョウザメと言えば世界三大珍味の「キャビア」の親であるが、この本は全編を通して、その親たるチョウザメの「肉」を食べたいという情熱に貫かれている。
チョウザメを食べたいという一心でロシアや日本各地の養殖場をめぐり、試食会を催していく中で、筆者はチョウザメを通して自然史に、そして環境問題に切り込んでゆく。
巻末には「チョウザメを見ることができる水族館」「チョウザメを食べることができる店」「チョウザメ料理のレシピ」が付録され、著者のチョウザメ熱を追体験できる。並みの自然史読本とは根本的に違う切り口を持っていて、その飾らない語り口と共に楽しめたのでありました。
つーかオレもチョウザメの寿司を食べたい。(2003/11/24)


ぼくの還る川(野田知佑/新潮社)

夜,焚火を前に二人の青年と話をする.
「恐ろしい話をしてやろう.俺の知っているカナダ人で自由を求めてユーコンに来たのだが,一人の女と恋に落ち,同棲した.次の年に四つ子が生まれて,彼は身動きがとれなくなってしまった.現在,彼は親子六人の生活を支えるためにやむなく郵便局に就職し,毎日,手紙の仕分けをしているよ」
「恐ろしい話ですねぇ」
「うん.グリズリーより怖いだろう.お前たち女にはくれぐれも気をつけろ」
「はい.くれぐれも気をつけます」
ユーコンのキャンプ地における野田さんと青年たちの会話なのだが,オレには何もかもまぶしく思える.若者にワルい話をしている野田さんの温かさ,憧れをもってそれを聞く青年たち,そして話に登場する郵便局員さえも.
自由を失った郵便局員は,子供たちに自分の若い日の冒険を語り,そこでの女性との出逢いを語るだろう.いつかは子供たちが,父親が失ったものを探しに旅立ってゆく.それはそれで,良い人生なんじゃないか?(2003/12/21)


僕に踏まれた町と僕が踏まれた町(中島らも/集英社)

大槻ケンヂがエッセイの中で絶賛していたので,わざわざ探して買ってきたのである.
中島らもの本はどれも非常に面白いのだが,どうやらあまり売れていないらしい.薬物がらみで逮捕されて以来,本屋でもあまり見かけなくなってしまった.
で,この本は確かに読んでてほろりと来る.中島らもが過ごした70年代の苦くてしょっぱい青春に充ち満ちていて,オレの世代とは明らかに違うのだが,それでも共通する体験がある.その一つ一つが,オレの心臓をきゅうっと締め付けるのである.(2003/12/27)


ファインマンさん最後の授業(L. ムロディナウ/メディアファクトリー)

著者のムロディナウはスタートレックの脚本家らしいが,キャルテクで物理学のポスドクを経験している.彼はそのポスドク時代に,晩年のファインマンと交流があったらしい.いや,「交流があった」というよりも,大いに迷える若手物理学者の筆者が,一方的に教えを求めてファインマンにまとわりついていたと言うのが正確だろう!
ファインマンの他の著書を読んでいれば明白だと思うが,ファインマンの学問に対する姿勢は一貫していてゆるがない.この本の中でも,いつまでも研究テーマが決まらず悩み続ける筆者に対し,時には厳しく突き放し,時には優しく科学を探求する楽しさを説く.いつの時代にも先行きに悩むポスドクはたくさんいるだろうが,この本はそんな苦悩を少しはやわらげてくれるかも知れない.

どうでも良いが,オレには筆者の不甲斐なさばかり印象に残ってしまった.この筆者は,自分自身の困難なモンダイを簡単に人に聞き過ぎる.オレがファインマンだったら,筆者にこう答えるかもしれない−もっと自分のアタマで考えてから人に聞け,さもなくばオレ自身の時間のムダだ!
どんな優秀な研究者だって,伸び悩む時期はあるだろう.もちろん,ファインマンだって自伝にある通り,何回もスランプを経験した.だが,そこから立ち上がるのは自分自身でしかない.科学に対する情熱,未知なるものを自分の手で明らかにしようという心だけが,悩む心の羅針盤となる.ファインマンは,そんなアタリマエの原点を若いポスドクに思い出させようとする.その厳しささえも温かく,人間味に満ちている.(2004/1/1)


地震学がよくわかる−誰も知らない地球のドラマ(島村英紀/彰国社)

地震学の入門書,というかトピックス集だ.世界を股にかけ,7つの海で地震観測を繰り広げる地震学者の,現場の息づかいが聞こえてきそうな話題がてんこ盛り.地震学を知らない人には,一番最初に読んで欲しい本だと思う.
ひとつ不満を挙げるとしたら,この本は制御地震や海底地震観測の話に偏っていると思う.地震学は非常に広範な分野で,筆者はその中でも,いうなれば「フィールド地球物理学者」だ.より理論的な話題であるソースプロセスや固体地球シミュレーションのトピックスも誰か書かないかな?

この人のウェブページもお薦めである[こちら].この本に出てくるようなトピックスばかりでなく,地震学や地震防災行政に対する提言なども豊富だ.この人の提言はもっと防災行政に反映されても良いと思う.
たとえば,この人は地震の「予知」だけでなく,強震動や被害の「予測」の実現性にすら悲観的である.そして現時点で可能な防災施策として,海底地震計を用いた津波速報の高精度化を挙げている.
だがオレは強震動予測について,もう少し楽観的である.なぜならば,現時点で強震動シミュレーションに用いられている基盤構造モデルが地質学者から見れば圧倒的に不満足なシロモノであり,既に出版されている地質学情報を正しくコンパイルすれば,現在よりは良い予測につながると確信できるからである.大大特は5年計画だが,それぐらいあれば実際に信用するに足るものが作れるのではないか,という希望を持っている.(2004/1/2)


意識とはなにか(茂木健一郎/ちくま新書)

1ヶ月以上前に読んだのだが,感想を書くのがためらわれた.この本は新書で軽いが,内容は軽くも重くも読める.語り口が平明なので軽くサラッとも読めるが,内容を深く考えようと思えばどこまでも難しくなる.
この本は意識をめぐる脳科学の本であるが,いわゆる狭義の自然科学的な,物質還元的なアプローチとは距離を置く.我々の感覚,意識,そういった定義困難なものが,我々の脳の中でどのように生成されるのか−そういった問題に,我々の主観的な体験を出発点としてアプローチしてゆく.その時の鍵になるのが,意識や感覚のOTUたる「クオリア」である.クオリアとは,我々がリンゴを意識した時に我々の意識の中に立ち上がる「リンゴらしさ」,夕日を見たときの「悲しいかんじ」といったもので,我々の意識の中に生成され,我々の中で世界を形作り,また時々刻々における我々の主体を形作る.
こうしたクオリアをOTUとする世界観を知ったことは,オレの心の中の「革命」だったと思う.クオリアを知ってしまった以上,オレはクオリアに満ちた世界を意識せずにはいられない.まるで光のスペクトルを知った後の,印象派の画家たちの様に.分類も記述も困難と思われた意識の断片を表すための,最小単元を今は与えられたのである.

・・・と,絶賛してから,ムクムクとわき起こる疑念.
○果たして,クオリアはOTUとして科学の対象になりうるのだろうか?我々は筆者によるクオリアの説明を了解する事ができ,クオリアの存在を確信できる.だが,いかなる手法をもってしても,客観的に個物としてのクオリアを記述することは不可能である.客観的テストができない以上,オレが了解したカテゴリーとしてのクオリアと,筆者のクオリアが一致する保証は無い.ひょっとしたら,我々がクオリアの存在を確信できる事すら,一種の心理的な催眠なのではないだろうか?
○筆者は,定義可能な個物からスタートする,物質還元的・計算主義的・機能主義的な考え方を「やさしい問題」と呼び,クオリアのような定義不能の個物の起源をつきつめる考え方を「むずかしい問題」と呼ぶ.だが,オレは近代科学的な設問である前者を「やさしい問題」と呼ぶことに抵抗がある.物質還元的なアプローチには非常に高度な抽象化が働いていて,その探究の過程はとてもエキサイティングなドラマである.けっして「やさしい問題」では無いだろう.フレーム問題は確かに意識しなければならないが,問いの無限連鎖のただ中に飛び込んで行って,意識について何か確からしい予測ができるというのか?クオリアも,いずれは生理学的な文脈における生成過程を明らかにできる日がくるかも知れない.だがそれは,クオリア自身を「定義可能な個物」に還元できた時ではないだろうか.オレには,筆者の言う「やさしい問題」と「むずかしい問題」という対置の二元論はあまり意味が無いように思える.

オレの前者の問いは,多くの人の間で共通のクオリアを生起し交流する事で,その関係性のアプローチから乗り越えられるかも知れない.筆者はしばしば優れた芸術の鑑賞会を主宰しているが,もしかしたらそういう意図があるのかも知れない.(2004/1/2)


心の鏡(ダニエル・キイス/早川書房)

中編版「アルジャーノンに花束を」を含む,珠玉のSF短編集.
「アルジャーノン−−」はやはり小説で読むのが一番泣ける.映画もテレビドラマも,文章が意識と共に残酷に崩れてゆくこの喪失感をけして表現しきれない.
どの作品も強く印象に残ったが,表題作の「心の鏡」が一番泣ける.他人の心の鏡として生きてきた少年が,ひとを信じる心を知った後,未来の世界をどう生きていくのだろうか?彼の未来を強く信じたい気持ちにさせられる.(2004/1/3)


惑星科学入門(松井孝典/講談社)

火星探査が何かと話題なので読んでみた.地球を理解するには宇宙から見る視点も必要だね.地球,月から始まり,各惑星や衛星まで解説しつくす.太陽系全体を概観する入門書として面白く読んだが,後半は少しバテた.後半の太陽系形成のドラマこそ筆者が専門とする所だが,それよりも各惑星のトピックスの方が面白かったりする。(2004/1/26)


人はなぜ逃げおくれるのか:災害の心理学(広瀬弘忠,著/集英社新書)

僕は現在,地震が発生する場について研究するプロジェクトに参加している.このプロジェクトの究極目的は,日本の過密した大都市圏における地震災害の軽減だ.でも,アタリマエのようだが,災害というのは人の身体や財産に被害が出るから災害として認識されるのであり,極端な話,誰も住んでいない地域で大地震が起きても災害にはならない.つまり,災害の大小は,そこに住む人のあり方に強く依存する.僕ら人類が自然災害に適切に対処していくためには,起こりえる災害の原因を自然現象として正確に把握すると同時に,その災害に備えた社会や個人のあり方を真剣に考えていかねばならない.
この本は,地震や洪水,火災,疫病など,大災害に遭遇した際の個人および集団の心理と行動を解説した本である.そこから,大災害に備えるためにはどうすれば良いのか,または大災害に見舞われた後「当事者として自分が生き残るためには」,または「被災者を救援するには」どうすれば良いのかといった重要なテーマに展開していく.
僕はこの本を読んで,「パニック神話」というのを初めて知った.「群衆は災害に見舞われるとパニックを起こす」のは,実はきわめて稀な現象なんだそうな.多くの災害では,群衆は「正常性バイアス」によって冷静さを保っている.むしろ,パニックになるのを恐れて正確な情報を隠蔽すると,被害が非常に大きくなってしまう事が多いらしい!
大災害を想定し適切に備えるためには,群衆の行動も含めた災害シミュレーションが不可欠だろう.でも,人間の心理は非常に複雑だろうし...地震そのものをシミュレーションするよりもはるかに難しそうだ.

筆者も指摘しているように,最近の大災害の特徴は被害総額の高額化にある.
たとえば,東京で阪神・淡路大震災クラスの直下型地震が発生した場合,その直接被害の総額は100〜300兆円と見積もられている(間接被害を含めると,ちょっと想像もつかない).世界第2位のGDPをもってしても,これはさすがに自力で回復できる規模の被害とは思えない.東京は1923年の関東大震災,1945年の東京大空襲から力強く復興を遂げてきたが,もし現在の東京が大震災に見舞われたら,日本が丸ごと傾くであろうことは想像に難くない.
防災対策は費用に対する効果が非常に見えにくいが,想定される被害が甚大な場合は,「費用便益」の原則のみにとらわれていてはいけない.有効な災害対策なら,多少お金がかかろうとも断行するべきなのだ.(2004/3/4)


生命の星・エウロパ(長沼毅・著/NHKブックス)

フロンティア生命圏の専門家である長沼さんが,ついに地球上の生命に飽きたらず,宇宙に進出してしまった(笑)
長沼さんは海底における化学合成生物の研究で著名である.太陽の光が全く届かない深海底でも,火山活動による熱水噴出口があれば,そこには熱水によってもたらされる硫化水素を栄養源として生活する独自の生態系が形成される.こうした生態系を構成する生物は,究極的には「水」と「火山活動」があれば,どこでも生存可能なのである.近年は海底の熱水噴出口に限らず,さらに過酷な環境,岩石圏の中からも生物が発見されている.地下数千メートルの玄武岩の気泡の中,さらに深部起源のマントル蛇紋岩の中からも生物が発見された.こうした地殻内生命圏を構成する古細菌類は,最近のDNA解析による生命系統樹では,最も原始的な生物であると見なされている.したがって,原始的な生命は,大気が無く太陽光線も届かない極限的な環境でも生活できるのである.これをさらにおし進めれば,「水」と「火山」さえあれば宇宙のどこでも生命が育まれている可能性がある!
著者は地球上の極限環境生物の知識を総動員し,木星の衛星・エウロパには必ず生命があるに違いないと説く.この本を読み終わる頃には,もう誰だってエウロパ生命を疑わない気分になっている事だろう.なにせエウロパには表層の氷床の下に厚さ50〜100kmにおよぶ液体の「海」が存在し,また強大な木星潮汐の影響により火山活動の存在が示唆されている.生命発生の条件が,地球に次いで良く整っているのである.

ここからがスゴイ.どうやら長沼さんは,そんなこんなで,エウロパに行きたいらしい.
エウロパの「海」の深さは50kmに達するが,重力が地球の13%なので,「海底」まで到達しても水圧は地球の海の6550m相当でしかない.つまり,日本が誇る「しんかい6500」なら,海底まで到達できるそうだ!この「しんかい6500」をスペースシャトルに搭載し(これまた,まるであつらえた様にピッタリ収まるそうだ),国際宇宙ステーションまで運び,そこからエウロパに向けてロケットブースターで射出する.これは人類初の有人宇宙生命探査の旅であり,我々の生命観を豊かにする究極の発見が待っているのだっ!そうな.
いや〜,久しぶりに熱い本を読んだ.科学書はやっぱり,これぐらい壮大な夢が無くちゃ.そう,科学はもともと,人類の夢なのだ(笑 (2004/5/9)


悪魔に仕える牧師(リチャード・ドーキンス著/早川書房)

書きたい事は本当にたくさんあるが,ちょっとだけ.
オレにとって,ドーキンスはグールドの「次に」好きな書き手なのだ.この本では,特にそのグールドに捧げた第5章に特別な感銘を受けた.この宿命のライバル(と良く言われるが,実はオレはそう思っていない)との間に交わされた暖かな交流は,それ自体が科学に対する賛歌となる.

彼は純粋に(時に無邪気過ぎるほどに)科学の優位性を信じていて,科学的な思考が僕らの生活を驚きに満ちた素晴らしいものにしてくれる事を力説する.そんな彼はいわば,科学の「宣教師」と言えるかもしれない.
ただ...「宣教師」というのは,異教徒と戦う事も仕事である.宗教原理主義や文化相対主義による,科学に対する不当な評価と戦わねばならない.その戦い方が,ドーキンスの場合,グールドよりもスマートではない.あまりにも一本気過ぎて,読んでいて危なっかしさを覚える.
例えば,この本の表題「A devil's chaplain」である.悪魔の司祭,ですよ??こんな表題を見れば,キリスト教信者であれば普通に善良な方々でも眉をそびやかせ,「やっぱり科学者はロクでもない事を言っているようだ」と思うだろう.彼は宗教を「ウィルス」と呼ぶ事からも明確なように,無神論者の方にしか向いていない.世界中の良識ある大多数の市民が何らかの宗教の信者である事を考えれば,こういう戦略は逆効果だと思う.僕らがするべきことは,無神論者を世界の過半数勢力にするという,おそらく無謀で不可能な試みを実践する事ではないんじゃないか?そもそも科学的命題と倫理命題はイコールでは無く,混同をすべきでない.多くの善良な信者にとって,自らの戒律を守り静かに日々を暮らす事と,科学的思考のもたらす素晴らしい側面を享受し続ける事は矛盾しない.そんなアタリマエで穏当な主張をする方がよっぽど効果的だと思うのだが,この世界的に売れているポピュラーライターは,そんな気はサラサラ無いらしい!
自らユダヤ人として,折に触れ旧約聖書から珠玉の一節を引用するグールドの方が,多くの知識人に聞かせる戦略としては正しいしスマートだ.それがアメリカで熱狂的にグールドが受け入れられた背景でもあるのだと思う.

・・・「題名」についてだけで,こんなに書いてしまった.
やっぱり全然書き足りないので,続くかも知れない(笑

(21:30)
そういえば,ドーキンスの本のタイトルは挑発的なものばっかりだね.
ざっと本棚を見回しても,「利己的な遺伝子」とか「ブラインド・ウォッチメーカー」とか「虹の解体」とか,まるで文系が理系を揶揄するのに用いそうな表現ばかりじゃないか.
そもそも,こういう挑発的で痛快な論法こそがドーキンスの持ち味で(ドーキンスのレトリックには唯物論的・弁証法的な匂いがする),ここで変にリベラル知識人のように物分かり良くなってしまうと面白く無くなってしまうのかも知れない.

他ならぬダーウィン主義の部分でも突っ込みたい所があるが,本当に長くなってしまうのでもう止めよう.(2004/6/1)


日本の地震地図(岡田義光・著/東京書籍)

日本のそれぞれの地方ごと(東北地方とか関東地方とか)にどんな地震が発生しているのか,これからどんな地震が起こるかも知れないのかを分かりやすく解説している.さらに,各地方でこれまでに発生した歴史的な大地震の震源や被害を紹介している.この本はもちろん一般向きに書かれているが,手軽に各地域のseismicityを概観できるのは,オレのような地震学プロパーでない研究者にとって非常に便利なのだ.(2004/6/28)


下妻物語(嶽本のばら・著/小学館)

冒頭はどうなる事やらと思ったが,だんだん読み進めるうちに書き方がこなれて来て,まぁ普通に面白かった.アカラサマに女子高生を想定読者としているが,少なくとも「世界の中心で愛をさけぶ」よりは泣ける(始めからマンガだと思って読んでいるから許せる).
そしてこれを映画化するなら,やっぱり主人公はどう考えたって深田恭子だ.この性悪ロリータ女を天然で演じ切れるのは彼女しかいない!
つくば的ローカルネタ満載.やっぱり買い物はジャスコだろ.決闘するなら大仏裏.(2004/7/8)


世界の中心で愛をさけぶ(片山恭一・著/小学館)

今までコナクソに書いたが,それは読む前の期待がすごく大きかったからである.映画はなかなか評判が良いし,この本だってロングセラーである.そしてオレは,久しぶりに号泣してみたくて,この本を買ったのである.もちろんBGMは平井堅をエンドレスでかけ続け,泣く準備はバリバリに整っていた.

読んだ感想としては,例えば「月9ドラマ」の脚本としては非常に良くできていると思う.読者と等身大の主人公が,等身大の青春を送り,等身大の喪失感を経験し,そして時間がゆるやかに彼の心を救済する.そもそも,オレはこの本を「文学作品」として読み始めたのが間違いだったのかも知れない.「下妻物語」のように始めから女子高生向けのマンガみたいなものとして読み始めれば,もっと素直に感動できたのかも.
この本は,「文学作品」としては圧倒的に内面描写の深みが足りない.恋人の存在が真にかけがえのないものだったならば,なぜその救済を儀式(散骨)や時間に頼ろうとするのか?本当の絶望を味わったなら,その程度で癒されるものではなかろう.自分自身の問題として悲しみに対峙し,それに打ち勝ち乗り越えようとするか,あるいは風化していく記憶に尚もしがみつこうと足掻く心理過程の,迫真の描写があっても良い.彼女の存在という重要なものの内省を主人公自身が軽く済ませようとするから(描写を軽く済ませるから),その後に本来続くべき再起のドラマも軽くなってしまうのだ.
オレが作者なら,その後に殺人事件のひとつやふたつは用意する.でなけりゃ主人公に長大な遺書を書かせて死地に赴かせる.常人による常人並みの話など,文学になる筈が無いだろ.(2004/7/8)


ロバに耳打ち(中島らも・著/双葉社)

【問い】私は来年の春から初めて親元を離れ,ひとり暮らしを始めます.ただ不安をあげると,昨年,私の実家に空き巣が入ったこと.きちんと戸締まりをして出かけていたのもほんの20分程度でした.そんなことを思い出すと,一人暮らしも不安で仕方ありません.ましてや居直り強盗なんて可能性も考えると・・・(23歳・女・アルバイト)
【答え】友達の石井君はある日帰ってみると,部屋で四人のアラブ人が嬉しそうにマージャンをしていたそうです.もう上野なんかに住んでいる人は「個人の家」という考えを捨てなければならないのかも知れません.
アホすぎる.そしてアホを言える人がオレは好きだ.(2004/7/10)


百億の星と千億の生命(カール・セーガン著/新潮社)

カール・セーガンの遺書とも言える著作.繰り返し襲う病魔の中,自らと人類の運命を静かに見つめようとする最終章は,読みながら涙が止まらなかった.
核兵器,食糧問題,地球温暖化,その他あらゆる地球規模の困難に対して,彼は無限の人類愛をもって解決のための希望を説く.政府を動かし,世界中の宗教家に対して連携と行動を促す.
そして彼の遺志は,ユネスコの「国際惑星地球年」という形で,世界中の地球科学者の行動目標となろうとしている.人類と地球環境との持続可能な関わりはどうあるべきか.まさに我々地球科学者の研究が,世界から問われようとしている.

惑星探査という超巨大科学(対象だけでなく,予算も人員も)の頂点に立っていたカール・セーガンは,宇宙規模の広大な観点で物事を見ていた.けして個人的な観念の世界に閉じこもってはいない.
巨大科学の研究代表者となる人は,そうあるべきだし,これからもそういう人が必要なのだと思う.
科学は一人でも探求できる.少ない人員と予算でも,それなりの成果を出し続ける事は可能だし,僕自身も大学院以来,そういう研究スタイルを取ってきた.だが今の僕は,数億円規模の巨大科学プロジェクトに雇われていて,研究に対する考え方も少し変わったと思う.ゼネラリスト的な視点で,社会に対する貢献を常に意識すること.異分野に対して積極的に働きかけること.(2004/9/30)


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