博士課程後期3年間の総括


2001年3月31日
林 広樹

この文章は「某地方国立大学・理学研究科・地質学古生物学分野」での私の経験に基づいて書かれています。以下に書かれている事柄は、ほかの分野では必ずしも当てはまらないことにご留意ください。


 私はこの春に(2001年3月)博士の学位を授与された。これから1人の駆け出し研究者として、新たな一歩をふみ出してゆく。「博士」という肩書についての私の自負(というか気負い)、自分がこれまでささやかながらやってきたことへの誇り、その一方で未だに行き先が決まらないことへの戸惑いと焦り。これらの全てを、大学院を卒業するにあたって記録に遺しておこうと思う。多少は自分の恥になることでも、飾らずにすべてを告白しておこうと思うのだ。
 これは、現在そして未来の自分に喝を入れるためのメッセージである。もちろん、私と同じように研究者を目指している後輩たちにも、この文章を通じて何かを感じてもらえるならばとても嬉しい。研究者になるという決意と覚悟を、この分野にいる若い人たちと、ぜひ共有したいと願っている。

D1の春に設定した目標とその到達度

 私はこれまで、進学するたびに新しいノートを用意してきた。そのノートも博士への進学で3冊になった。つまり、「卒論ノート」「修論ノート」「博論ノート」といった具合である。それぞれのノートには、「巻頭言」と称して、その課程内での目標を記してある。

 いま、博論ノートの巻頭言を読みかえしてみる。

(以下、原文のママ)

<巻頭言>
ムキ出しのハングリー精神で
(まっとうな)公募を勝ち取ろう!

  1. 年間2回以上学会発表をする
  2. 年間1本以上フルペーパーを書く(できれば2本以上)
  3. 博論はたうぜん英語で書く。
  4. 自力で論文を書けないようなDにはぜったいならない

 ・・ううっ!こりゃ私、石を投げられてもしょうがないですね!若さを差し引いても、じゅうぶん恥ずかしすぎる内容が書かれている。私はアサハカにも、上に箇条書きされている4項目さえ成し遂げれば、研究者公募を実力で勝ち取れるだろうと皮算用していたのだ。

 きょうび大学の助手公募ともなれば、100通以上の応募が殺到することもしばしばである。私が知る限り、最近その中で勝ち残った人は、みんな30歳過ぎである。しかも、すばらしく優秀な方ばかりだ。私よりもはるかに優秀な方々が、厳しい生活環境の中でコツコツと業績を上げ、日本の基礎科学分野を支えている。そんな方々が、30過ぎるまで就職できないまま、明日の研究者を夢見て何百人何千人と浪人しているのだ。きびしいけど、それが科学技術立国(自称)・日本の現状なのである。

 ごめんなさい、私が甘かったです。だから学振にDC1からPDまで4回連続で落選するんですね(ぜんぜん関係ない)。
 それはともかくも、目標が設定されていた以上、その到達度を見てみることにする。

1. 年間2回以上学会発表をする
到達度:
博士1年(1998年度) 3回
博士2年(1999年度) 4回(うち1回は海外)
博士3年(2000年度) 3回
2. 年間1本以上フルペーパーを書く(できれば2本以上)
到達度:筆頭著者として出版された論文だけ挙げると、
博士1年(1998年度) 1本(日本語!)
博士2年(1999年度) 1本(日本語!)
博士3年(2000年度) 1本(英語だけど、紀要!)
3. 博論は英語で書く。
到達度:書いた。
4. 自力で論文を書けないような博士にはぜったいならない
到達度:なんとか自力で書けるようになったと思う。

 あらためて見返してみると、ひとつひとつの課題はクリアしている。でも、就職できていない。いかに初めの目標設定が甘いかが、改めて思い知らされるようだ。本気で課程終了後すぐに就職したかったら、私が尊敬しているような優秀な先輩方と、互角以上にわたりあえるだけの業績を上げなければならなかったのだと思う。

 もし私が3年前にもどって、あらためて博士課程の目標を立てるとするならば、2番目の目標を「年間で2本以上の論文を国際誌に書く!」に変更するだろう。しかし、今日これからならまだしも、そんな壮大な目標が大学院生当時の私に達成できるのかどうかについては、正直なところ全く自信がない。

 もっとも、上記の目標は別の意味でも間違っている。研究者を目指すにあたって一番重要なこと−− すなわち、不断の勉強によって知識と教養を増し、自分のスタイルを確立し、研究に必要な技術を身につけ、内面を磨く、という、本来最も大切な目標が抜け落ちてしまっている。博士号は英語で Doctor of Phylosophyと表される。こんにちまでの3年間で、私はみずからの哲学を確立することができたのだろうか?

研究者としての自己訓練

 研究者としての素養には様々な要素があるのだろう。それには、あるていど外から推し量れるような技術的側面(つまり、研究者としての能力)と、内面の成長をしめす精神的側面(いうならば、研究者としての倫理と呼ばれるべきもの)とがあるのだと思う。
 このうち後者については、今の自分のありかた・道徳意識が研究者として認められるほどのものなのかどうか、自分では正直よくわからない。進学当時の自分と比べ、いまの自分は精神的にも成長している、ささやかながらもその成長に必要なだけの経験を自分は積んできたのだ、と思いたい。しかし、幸か不幸か、私はそれを真に試されるような場面にまだ遭遇した事がない。
 ここではもっぱら前者について、すなわち技術的な側面について、私が身につけることができたこと・できなかったことを反省してみたいと思う。

 私が大学院生活を過ごすにあたって、明文化はしていないものの、漠然と目標としていたことが4つあった。

  1. 地質学というスペシャリティーの中でゼネラリストになること。
  2. 研究者としての知的生産能力(プレゼン能力・論文を書く能力)を身につけること。
  3. 野外地質調査の達人になること。
  4. データを出すことができるようになる(私の場合、有孔虫を同定できるようになる)こと。

それぞれについてふり返ってみる。

(1)私が所属する研究室は、教授5人に助教授が5人の大講座である。こうした大講座制のメリットがもしあるとすれば、それは他の研究分野の人と日常的に交流して視野を広めることができる、ということだと思う。
 私の研究室にもいろいろな人がいる。活断層のフラクタル的性質を研究している人、火成活動を扱っている人、堆積作用を研究している人、化石を研究している人、遺伝子を研究している人etc...折角こんなにいろんな事をやっている人たちが周りにいるわけだから、まったく無関心でいるのはソンというものだ(残念ながら、ソンな人の方がやや多いようだ)。
 私は、当教室に60人だか70人だかいる教官/院生の研究テーマをなるべく知ろうと心がけてきたし、余裕があればそれに関わろうとしてきた。いま振り返っても、この事に関してはそれなりに楽しく充実した大学院生活を過ごすことができたと思っている。ゼネラリストとまで自称できるかどうかわからないけど、地質学全体を見渡せる広い知識を得るうえで、大講座に属することができた幸せを感じている。

(2)私は、研究者としての最も大切な能力は、研究成果を世に問う能力だと思っている。論理とかアイデアとかも大事だけど、口ですごいことを言ってもそれを論文にすることができない人は、他人を説得するツメを欠いているわけで、論理もどこかしら破綻しているのではないだろうか。どんな優れたアイデアでも、それをしっかり詰めて論文にすることができなければ、それはそのアイデアに不備があるのだと思われても仕方がないのではないか。つまり、研究者としての能力は、それを発表するプロセスに特に集約されているのだと思う。
 そう思ったので、とにかく学会発表と論文執筆はガムシャラに取り組んで自己訓練しようと決意した。結果からいえば、学会発表はそれなりに場数をこなして(3年で10回・うち外国1回)質の高い訓練をすることができたと思う。私は学会発表を「恥をかいて勉強するところ」と位置づけている。しかし、幸いにしてあまり恥をかくようなことはなかったようだ(たぶん)。博士になってから恥をかくのは相当ツライだろうから、大学院生のうちに訓練できてよかったと思う(特に、国際学会に挑戦できたのは大きい)。
 問題は、論文執筆の方である。自分で3本書いているが、まだ国際誌に書いた経験がない。他の研究科の方なら、国際誌に論文を掲載させずに博士号をとるなんて信じられないと思うだろう。大学院生時代に書かなかったのは、本当に不覚だった。このためだけにでも、あと1年大学院生をやるべきだった(つまり留年)かもしれない。とにかく、これから頑張って書くしかない。

(3)今までの研究生活によって、私は地質調査には多少なりとも自信がついた。日本中どこでも、どんな地質体でも、私が行けば何かはできると思う。とにかく、自分の調査のためだけではなく、後輩の指導やアルバイトのためなど、様々な目的で日本中を調査した。さすがに卒論の時に比べると調査日数はめっきり減ったが、それでも3年間に100日近くは歩いていると思う。山や谷を歩くのは好きなので、これからも地質調査をライフワークとして続けていきたいと思っている。

(4)私の専門は浮遊性有孔虫化石の研究である。化石の研究のためには、まず化石を分類できるようにならなければならない。この作業は、実はかなりの熟練を要するのである。だから私は”武者修行”として、よりたくさんの化石を分類するように心がけた。そのために「来る者拒まず」で、依頼された化石の同定はすべて引き受けてきた。その結果、最近では中新世の浮遊性有孔虫の同定にはかなり自信がついてきた。これからは他の時代についても勉強して同定できるようになりたいと思う。

 私が大学院生時代に学んだことで、上に挙げてきたことよりもはるかに重要な事がある。それは、多くの先輩方に学んだ、研究者としての生き方に関することである。
 私は小さな共同研究を自ら組織し、そしていくつかのすばらしい共同研究に参加する中で、1人で研究することの限界と、研究者が協調することの大切さを学んだ。その過程で知り合うことのできた研究者の方々とのつながりが、私のかけがえのない財産である。
 また、私の研究室には、学問に対する情熱のために、たいへん苦労して研究を続けている先輩方が何人もおられた。私よりもはるかに経済的に厳しい中で、アルバイトをして生活費と授業料を稼ぎながら地道に研究を続け、そして私よりもはるかに大きな業績をあげている−−そんな先輩を身近に見て知ることができた私は、本当に幸せだったと思う。私が尊敬する、すばらしい方々との出会いの中で、私も研究者への夢をゆるぎないものにすることができた。

博士研究のテーマと現実

 私は自分の博士論文に満足していない。むしろ、審査が終わった今となっても、その現物がこの世に存在していることが苦痛な感覚、全てを隠滅してしまいたいという欲求を、完全には克服できずにいる。もちろん、論文にウソを書いたつもりはない。ただ、その内容の不十分さ・論理の未熟さを許せないでいるのだ(学問的良心?!)。たとえ書いた時点では精一杯のシロモノであったとしても。

 私が博士研究で本当にやりたかったこと、そしてこれからもライフワークとしてやっていきたいと思っていることは、「浮遊性有孔虫学の創設!」なのである。つまり、私は浮遊性有孔虫という生物を完全に理解したいのだ。博士課程で多くの浮遊性有孔虫の論文を読み、まとめていくうちに、古生物としての浮遊性有孔虫の知識を体系化したい、さらには生命と地球の共進化のドラマを浮遊性有孔虫の進化史を通して描きたい、という野望が頭をもたげてきたのである。

 その野望の発露が、英文で 4,387wordsにおよぶ初稿第2章であった。自分が博士研究でやりたいと思ったことを全て盛り込み、浮遊性有孔虫古生物学についての従来の知識を丸ごとまとめた問題作だ(読みにくいことこの上なし)。結局、自分の博士論文が計画倒れになって大幅縮小したので、この問題の章はまるごとボツになってしまった。この章の執筆には丸1カ月かかったし、このままではあまりにも悲しい。そのうち著作権放棄してネットで公開してしまおうかと思っている。

 しかし、そんな余計な章の執筆に1カ月もかけてしまったのも、博士論文をまとめきれなかった一因であった。私は博士論文について、当初、以下のような戦略を持っていた。

  1. 形態測定学的手法による進化分類学的検討を行う。
  2. 上で確立した、新しい分類手法に基づいて有孔虫の分析を行う。
  3. それによって生層序を確立する。
  4. 群集解析を行い、群集の進化過程と環境変動について考察する。

 実は、博士論文では上に挙げたうちの3番(生層序)しかできなかったのである。他の項目は、どうしても論文執筆が間に合わずに、章ごと落としてしまったのだ。当然だが、生層序学は進化や環境といった問題と密接に関わっている。その一番オイシイ部分の考察を丸ごと落としてしまい、ただ単に地層対比のツールとしての有用性を指摘するだけで終わってしまった。ケーキのイチゴを最後に残しておいたら床に落としてしまったようなものだ。そして全体としてのツジツマを合わせて論理の整合性をもたせるために、すでに書き終わっていた他の章の内容も大幅に削減せざるを得なかった。
 大幅削減の結果、最終的な博士論文は英文で183ページになった。量こそ若干かさばっているようだが、この量は最近10年間の博士論文の中でも決して大作というわけではない。しかも、少なくとも私自身はこの博士論文に納得していない。今、私の机に、茶封筒に入った博士論文の生原稿が積まれている。それをながめて、しょせん自分の3年間の一所懸命なんてこの程度のものさ、博士号を取得したからって自分に酔っている暇なんてないんだぜ、と自分を戒めているのだ。

おわりに 〜博士としての自分

 私は自分のことを、単純で楽天的な男だと思っている(たぶん、周りもそう思っている)。そして今まで、楽天的なイメージそのままに、ガムシャラに研究に打ち込んできた。そのまま何も迷わずに進んでいけたら、どれだけ毎日が楽しく素晴らしかったろう!でも、実際の私は、いつも目標と現実の乖離に悩み続けていた。そして自分を、周りを、絶えず責め続けていた。私は、完全には楽天的になれないまま、悩みつつもそのまま走り続けていたのだ。
 そして博士の学位を与えられ卒業を迎えても、未だに自分自身満たされていない。自分の3年間を振り返って、たしかに精一杯だったとは思うが、自分を誉める気にはどうしてもなれない。でも、10年とか20年後、もしかしたら、この3年間のささやかな到達点に、心から満足して振り返ることができる日が来るかもしれない。その日のために、この3年間で撒いた種子を、これから不断の努力で育てていこうと思う。今は、この満たされない心こそが、私を立ち止まらせずに成長させる大きなエネルギーになるものと信じたい。

 博士号という肩書は、よく「運転免許証」にたとえられる。助手席に指導員(教授)を乗せずに、独立して運転(研究)をすることができると認められる、という意味である。
 言うまでもないことだが、免許証を持っていたって、車の運転がうまいとは限らない。また、教習所をトップの成績で終了した人が、その後も運転がうまいとも限らない。全ては、免許を取った後に、どれだけ公道で経験を積むかにかかっている。
 私も若葉マークの初心にかえって、しっかりと初心者青二才研究者としての一歩をふみだしていく決意である。

 最後に、私を支え、ときに挑発してくれた全ての方々 −−両親、先生方、先輩・後輩そして友人たちに、心から感謝申し上げます。
 どうもありがとうございました。そしてこれからも、どうぞよろしくお願いします。


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